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ジェイムズ・サリバン (州知事) : ミニ英和和英辞書
ジェイムズ・サリバン (州知事)[こと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [す, しゅう]
 (n) sandbank
知事 : [ちじ]
 【名詞】 1. prefectural governor 
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 

ジェイムズ・サリバン (州知事) : ウィキペディア日本語版
ジェイムズ・サリバン (州知事)[こと]

ジェイムズ・サリバン(、1744年4月22日 - 1808年12月10日)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州弁護士政治家である。マサチューセッツ州最高司法裁判所初期の陪席判事であり、長年州検事総長を務め、1807年から死亡した1808年12月までマサチューセッツ州知事だった。
サリバンはメイン州バーウィック(当時はマサチューセッツ湾直轄植民地)で生まれ育ち、兄のジョンと共に法律を勉強した。法律実務を行って成功した後、アメリカ独立戦争の時にはマサチューセッツ政府と積極的に関わるようになり、1776年にはマサチューセッツ邦の最高裁判所判事に指名された。州憲法起草に関与し、アメリカ合衆国憲法批准のための州会議に参加した。1782年に判事を辞した後は法律実務に戻り、その後の1790年にマサチューセッツ州検事総長に指名された。判事や検事総長を務めた間に、イギリス支配の時代から独立アメリカへの移行の一部として州法の起草と改定を担当した。検事総長時代にメイン州とカナダニューブランズウィック州の国境確定を行った委員会で働き、また人目を引いた殺人事件数件を担当した。
サリバンは党派の活動家であり、民主共和党を支持し、ジェファーソンの共和政理想主義に傾倒した。その政治的経歴の中でジョン・ハンコックサミュエル・アダムズを支持し、州内の新聞での政治的対話では、多くの仮名の下に寄稿することが多かった。州知事に何度か挑戦したが、1807年にやっと当選した。しかしその2期目(2年目)中に死亡した。
サリバンは政治に関わったことに加え、慈善と事業にも関わった。ミドルセックス運河、ボストンケンブリッジの間で最初の橋の指導的推進者であり、ボストン初の公共上水道開発では提案者だった。マサチューセッツ歴史協会の設立会長であり、その他の慈善組織では様々な会員だった。出身地のメインについて最初期の歴史書を執筆し、土地の権利について法律書を書いた。法学歴史家のチャールズ・ウォーレンは、サリバンが当時のマサチューセッツで最上級に重要な法律面の人物だったとしている〔。
== 経歴 ==

=== 生い立ちから独立戦争まで ===
ジェイムズ・サリバンは1744年4月22日に、当時はマサチューセッツ湾直轄植民地、現在はメイン州のバーウィックで、ジョン・サリバンとマージェリー・ブラウン・サリバン夫妻の四男として生まれた〔Amory, p. 17〕。サリバンの父はアイルランドリムリック州の出身であり、母は父が乗って来た船にのっていた子供だった。母が成長したときに、父が求婚して結婚した〔Amory, pp. 8–11〕。父はバーウィックで学校の教師、かつ農夫だった〔Amory, p. 12〕。サリバンは家で教育を受けた。子供時代の事故で足が砕け、軍人になりたいという望みが絶たれてしまった〔Amory, pp. 20–21〕。若い頃にてんかんにも苦しめられ、人生の残りも概して穏やかだが発作があった(ただし長時間続くこともあった)〔Amory, p. 22〕。足の傷が快復しているときに、大いに本を読み、ラテン語や古典を学んだ。兄のジョンは法律を学んでおり、弟にも法律の本を渡し訓練を行うよう指示を受けていた〔。サリバンは現在のニューハンプシャー州ダーラムで兄の法律実務について法律を勉強し、最終的にマサチューセッツの法廷弁護士として認められた。現在のメイン州ジョージタウンで法律実務を始め、それから間もなくビデフォードに移り、町で最初の弁護士になった〔Willis, p. 95〕。1768年、サリバンはヘッティ・オディオーンと結婚した。ヘッティはニューハンプシャー州ポーツマスで成功した商人の娘だった〔Amory, pp. 28, 30〕。
サリバンの法律実務は繁盛し、30歳までにヨーク郡でも指導的な市民の一人になっていた〔Amory, p. 32〕。ボストンを本拠にする商人の事業の代理人として働くことで、法律実務の収入を補った。その商人の中にはボストンでも最大級に裕福な者だったジョン・ハンコックがいた〔Clark, p. 54〕。土地の権利を守る弁護士としての仕事に対して、サリバンは1773年に弁護した権利の1つの中で土地を提供された。サリバンはこれを受け取り、父の生まれ故郷にちなんで、リムリック・プランテーションと名付け、組織化した。1775年、サリバンは町への入植を助け(自ら開墾を支援した)、1787年3月6日にはリムリックの町として法人化された〔Amory, p. 31〕。ジョン・アダムズに拠れば、サリバンは仕事の報酬を使って農地や工場など地元の不動産に投資していた〔Amory, pp. 33–34〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジェイムズ・サリバン (州知事)」の詳細全文を読む




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